ほぼ日の学校長だよりNo.111
向田邦子三昧(ざんまい)
去年が生誕90年、来年が没後40年。正月休みは、向田邦子三昧(ざんまい)でした。
『父の詫び状』(文春文庫)、『眠る盃』、『夜中の薔薇』(ともに講談社文庫)のエッセイ集を3冊、『思い出トランプ』(新潮文庫)、『隣りの女』(文春文庫)という短編集を2冊、ラジオのシナリオ台本『森繁の重役読本』(文春文庫)、それに妹・向田和子さんが書いた4冊――『向田邦子の遺書』、『向田邦子の青春』、『かけがえのない贈り物――ままやと姉・邦子』(以上、文春文庫)、『向田邦子の恋文』(新潮文庫)――の計10冊の“固め読み”。
『向田邦子 暮しの愉しみ』、『向田邦子 おしゃれの流儀』(ともに「とんぼの本」、新潮社)、『向田邦子の手料理』(講談社)などもチラチラ眺めながら、です。
いずれも以前に一度は読んだ著作です。3度目になるものもいくつかあります。なのに、初めて読むような新鮮さがあるのが不思議です。
古くなった感じが一切しません。むしろみずみずしさが増しているくらいです。何だろう、この魅力は、と思います。
市井(しせい)の人たちの“あからさま”でない人情の機微が、心の襞(ひだ)に沁み入ります。思いがけない気づきもあって、つい1冊が2冊に、2冊が3冊に、と止まらなくなりました。
そもそもお正月に向田さん、という連想は、いかにもあの人らしい書き出しの、このエッセイがあるからです。
<お正月と聞いただけで溜息が出る。
子供の頃から、お正月は寒いもの、客が多くて気ぜわしいものと決っていたからである。
別にお正月だけが特別に寒かったわけでもないのだろうが、余計なものを取り片づけた座敷は広々としていたし、暮のうちに取り替えた畳は足ざわりも固く青く光っていた。張り替えた障子は、古く黄ばんでケバ立ったのを見馴れた目には、殊更白く見え、床の間の千両や水仙まで冷たく見えた。
来客が見える時間には火鉢を入れるが、あとは重詰がいたまぬよう火の気を控えた部屋もあったから、余計寒く思ったのかも知れない。
日頃は厚手の下着やセーターで、ぼてぼてと着ぶくれていたのが、晴着を着るので薄着になるのがこたえたこともあるのだろう。>(「お軽勘平」、『父の詫び状』所収)
いまや「座敷」も「障子」も「床の間」も、日本の一般家庭からは姿を消しました。ましてや「一酸化炭素中毒!」などと言って、時々窓を開けながら「火鉢」を使う家もないでしょう。
けれども向田さんの少女時代、80年くらい前の勤め人の家庭の元日は、だいたいこんな風景だったと思います。そして、高度成長期に育った私は、昭和10年代半ばの正月の匂いをかすかな“名残り”として感じられるギリギリ最後の世代なのかもしれません。正月ならではの、あの凛(りん)とした寒気のことは、しっかり体が覚えています。
澄み切った空気のあの寒さと、年が改まったという張り詰めた感覚は、アルミサッシや床暖房に慣れたいまの世代には伝わるまい‥‥。そう思えるだけに、このエッセイは一層心に残るのです。
それともう一つ理由がありました。張り替えた障子が「殊更白く見え‥‥」という箇所にくると、いつも笑い出してしまうのです。久世光彦さんの『向田邦子との二十年』(ちくま文庫)に「名前の匂い」という文章があります。
<向田さんは、表向きは自分の名前を嫌がっていた。向田という姓も、邦子という名も、画数が少なくて、紙がはがれて桟(さん)だけの障子戸のようで嫌だ嫌だとよく言っていた。風通しが良すぎて、だからしょっちゅう風邪をひくんだと怒っていた。>
このエッセイをちょうど読んだ頃に、映画評論家の品田雄吉さんとパーティで立ち話をする機会がありました。その昔、品田さんの名前を見た向田さんが、「ずいぶん口が多い名前ね。いくつあるかしら? 11もあるわ」と言ったというのです。品田さんのペンネームを何にするか、二人で相談していた時だとか。「多口充一って、どう?」――向田さんが言ったそうです。
この瞬発力、ユーモアにはほとほと感心するのですが、考えてみれば、向田という姓にも5つ口があるわけです。常々そんなことを思っていたに違いありません。以来、「張り替えた障子」のところに来ると、風邪を引いてくしゃみをしている向田さんの姿が浮かび、思わずクスリとするのです。
さて、向田さんの“固め読み”の11冊目、締めの1冊に選んだのは、昨秋、刊行された『向田邦子の本棚』(河出書房新社)です。
「大きくなったら本屋のオヨメさんになる」と言っていたらしい向田さんの遺した約1600冊の蔵書を中心に、彼女の“本棚”の一部を再編集した1冊です。同時代の小説やノンフィクション、詩集、全集、古典など、フムフムと眺めているだけで時間が過ぎます。
ボロボロになるまで使い込まれた『三省堂明解国語辞典』は、貫禄十分。久世さんの「アンチョコ」(前掲書所収)に出てくる、向田さん愛用の『歳時記』と『歌謡大全集』に出会えなかったことは残念ですが‥‥。
「食いしん坊に贈る一〇〇冊の本」は、書店のイベントのために向田さんが選んだ100冊の紹介――。
漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』、鷗外の『雁』、太宰治の『津軽』、大岡昇平の『野火』や野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』、海外ミステリーなどが入っているところがユニークです。
最後に載っているのが妹、和子さんの「姉と本」という談話です。『父の詫び状』では、明治生まれの厳父として――「物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった」――と描かれた父親の話が出てきます。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主人公――3代続く石屋の大将らしく石のように頑固一徹、癇癪持ちのカミナリ親父――のモデルであったといわれる父上です。ところが――、
<『向田邦子の本棚』の企画を聞いて最初に思い浮かんだのが父のことでした。保険会社の地方支店長をしていた父は、高等小学校しか出ていませんでしたが、負けん気が強い努力家で、ものすごく勉強をし、新聞や本をよく読んでいました。鹿児島に住んでいた頃の四畳半の納戸は、本でいっぱいだったと姉もエッセイで書いています。
それらの本をくまなく読んでいましたから、日本文学から歴史、地理、古典文学にも詳しく、歌舞伎や能楽の謡もよく知っていました。さらに『文藝春秋』のような雑誌にも目を通していたので社会の時流にも通じていて、話題には困らない人でした。
『父の詫び状』では、愛情を表現することがへたな父親像が描かれているけれど、そればかりではない、博学な文学青年の面影を残す部分もありました。同人サークルに所属して小説を書いていたことがあり、それが縁で母と結ばれたそうです。>
最後の下りは、「そうだったのかぁ」という意外な横顔です。久世さんの文章を、また思い出しました。
<向田さんは<矢田陽子>というペンネームを使っていたことがある。親から貰った名前が<嫌だよう>という、可愛くて悪戯(いたずら)っぽい反逆だった‥‥>
<素っ気ない名前の邦子さんには、下に二人の妹がいて、迪(みち)子と和子という。三人並べてみるとなかなかつりあいの取れたいい姉妹の名前なのだが、当人たちにしてみればそうでもないらしく、それぞれに勝手な不満を言い合っていたようなのだが、向田さんは末の妹さんには特に同情して手抜きの名前だと常々言っていた。自分や迪子はまだいいけれど、和子なんて名前、どこのクラスにも三人はいるというのである。なるほど私にも覚えがあるが、昭和のあのころの子供は昭子と和子ばかりだったような気がする。これらの名前の命名者であり、貫太郎のモデルでもあった頑固一徹のお父さんも、娘たちの口にかかっては散々で、『明治大正文学全集』を本棚に並べていたわりには、子供の名前に文学性がないとか、だからあれは並べてあっただけで読んでなかったんだとか、三人の娘たちはそんな父親を懐かしがりながら悪口を言っていた。>(「名前の匂い」、前掲書所収)
今回の和子さんの話に出てくる父親像は、「博学な文学青年の面影を残す」人であり、その影響を一番受けていたのが姉ではないか、という見立てです。向田さんもまた、父親が詳しそうなことで「お伺いを立てる」など、長女らしい気遣いを示します。
<それとはなしに、「徒然草のこういうシーンが出ていたのですが、続きはどうなるのですか?」とか、「市川團十郎の先代はどうだったんですか?」といったような質問を父に投げかけるのです。父はだいたいのことは覚えていてすらすらと答えて、「あとは自分で調べてごらん」と言ったりしていました。
四人の兄弟の中でも父とこうした会話ができるのは姉の邦子だけで、共通の書物について語り合える喜びを父も姉も感じていたに違いありません。姉は短い時間で、ちょっとした親孝行をやっていたのでしょう。そして父も文章を書く仕事をしている娘の邦子に自分を重ねていた部分があると思うのです。>(向田和子「姉と本」、『向田邦子の本棚』所収)
これほど娘を愛した父親もいない、と思える父と娘の関係に、また一つ、強い紐帯(ちゅうたい)を見つけたような気がします。
和子さんの談と並んで、久世さんの「私立向田図書館」(前掲書所収)も採録されています。
<知識とか教養とかいうものは、立派な箱に入っているのを大仰に取り出されると白けてしまう。そんなものなら要らないや、と僻(ひが)みたくもなる。その点、あの人の知性はいつも微笑(わら)っていた。角(かど)を殺(そ)いで円(まろ)やかな教養だった。だから、あの人の知識には肌触りや、匂いや、色合いといったものがあった。何でもすぐに忘れてしまう私だが、向田さんに教わったことだけは、不思議にいまでも覚えているような気がする。>
そして、若いときにどうしてもっと勉強しなかったのだろうと悔やむ久世さんが、その学びそこねた「空洞」を、これからの人生でどれほど埋められるだろう? とある晩、向田さんに話します。
<あれは直木賞を貰ってすぐのころだったろうか。その夜は珍しく二人とも神妙だった。何の話からそんな方へ行ったのかは忘れたが、いつの間にか長年の自分の無知、不勉強、ついついの手抜き、そのための誤魔化し、そういう恥についてお互い正直に告白し合うという妙なことになってしまった。向田さんとは飽きもせずいつも夜明けまで話したものだが、話の中身はほとんどつまらないことばかりだった。まじめだったのはこの夜と、あの人が医者に初期の乳癌を告げられたときと、たった二回だけだった。その晩、いまは書くよりも、読みたいとあの人は言った。天から降ってきたみたいに文学賞を貰って、なんだか足元の水がざわざわと騒ぎ立ちはじめて、これを鎮(しず)めるためには読まなければいけない。切実な顔だった。目もいつもみたいに笑っていなかった。>
この2年後、向田さんは台湾旅行中に航空機事故で亡くなります。
この下りを読みながら、2020年、一年の計を考えなければと、久々に正月らしい引き締まった気持ちが湧いてきました。
2020年1月23日
ほぼ日の学校長
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