ほぼ日の学校長だよりNo.32
「マクベスの呪い」
「これからエアーで大縄跳びをやってみましょう。私が綱の片方を持ってまわしますので、もう片方をどなたか持ってくださいますか」
「ありがとうございます。では、誰か、これを跳んでいただけますか」
4月23日はシェイクスピアの454回目となる誕生日でした。その翌日、「シェイクスピア講座2018」の8回目の授業が行われました。全コースの半ばを折り返した後半最初の講義は、第1回に続いて、シアターカンパニー・カクシンハンの演出家・木村龍之介さんの登板です。
今回は、受講生の“想像力”を刺激する木村流のエクササイズが中心に据えられました。大事なのは、「みんなが同じイメージを共有することだ」と木村さんは言います。
ハムレットはどういう魂の持ち主なのか、このセリフはどういう状況で語られるのか。イメージが共有されないことには、ここ「ほぼ日劇場」にその場面は立ち上がらない、と。
頭での理解だけではなく、できる限り想像力を働かせ、全身で“何か”を感じ取り、それに深い表現を与えるためのイメージ――。
手始めにやったのが、冒頭のエアー縄跳びです。軽いウォーミング・アップとはいえ、ためらわず、すぐに応じた受講生のおかげで、にわかに弾みがつきました。
次に挑んだのが「ハムレット」の冒頭場面です。何度かセリフを朗読してきた、衛兵バナードーの「誰だ?」に始まる城壁のシーン。
「みなさんはエルシノアになってください」――木村さんが楽しそうに課題を投げかけます。エルシノアとは、「ハムレット」の舞台となるデンマークの城。
「さぁ、その城になりましょう。どういうイメージの城だと思います?」
「荒れ果てた感じ」、「石造りの古い城」、「青白い」、「闇」、「凍えそうな寒さ」‥‥口々に、そんなイメージが語られます。「では、その冷たい風を、声で表現してみましょう」、「そして、夜ごとに出没するという、亡くなった先王の亡霊を、手のかたちで表現してみましょう」――木村さんの声が響きます。
前々日に、「ハムレット」公演を終えたばかりのカクシンハンの俳優たち(河内大和、真以美、岩崎マーク雄大の3人)が加わり、木村さんの指示のもとで冒頭場面が演じられます。受講生の声による「冷たい風」や、手の演技が合わさります。
やってみると、難しいものです。正直なところ、イメージにとても追いつきません。もし自分が観客の立場でいたならば、そこにエルシノア城が「見えた」かどうか? 芝居の奥の深さを思い知らされます。
授業の後半は「マクベス」でした。バーナムの森がダンシネインに向かってくるという、最後の山場のシーンです。動く森を、自分だったらどう演出するか。この課題を5分間、7つのグループに分けてディスカッションします。
短時間に、はたして結論まで達するだろうか。どんなアイデアが飛び出すものか、まったく予測はつきません。けれども、グループごとの積極的な発表が続きます。「早く言った者勝ちだから」などと言いながら、どうしてどうして、それぞれのとらえた「バーナムの森」が語られます。
代表するグループには、実際に「森」を演じてもらいました。河内大和さんのマクベスをじわじわと追い込んでいく、まとわりつく悪霊のような森でした。
それを見ながら、ちょうど40年前の個人的な「バーナムの森」体験を思い出しました。大学を出て、中央公論社に入社したばかりの5月のことです。入社直前に刊行された『道化の文学』という中公新書がありました。英文学者の高橋康也さんの著作です。ルネサンス期のエラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスという4人の作家を読み直した、とてもおもしろい本でした。
その日は、この新書を担当した先輩の家に招かれたのでした。小田急線の南林間か中央林間が最寄り駅でした。駅周辺には丹沢の山々につらなる原生林がまだたっぷり残っていました。
6階か7階くらいのマンションの窓から見渡すと、陽光を浴びた新緑のカーペットが眼下に広がります。「駅の周辺からみるみる開発が進んで、森が次第に小さくなっている」と説明された覚えがあります。
「‥‥ということは、視覚的には森がこちらに向かってくる気がしませんか。バーナムの森が迫ってくるみたいに」と思わず、口をついて出ました。家の主は笑いながら、「別段やましいことはしていないから、そんな心配はまったくないよ」と答えました。
日本列島改造や開発ラッシュの弊害がさかんに問題視されていた時代です。猛スピードの自然破壊こそが、現代の主君殺しかもしれない、と頭の隅で思ったのが、40年前の「バーナムの森」体験です。
そして、その日、その家で語った話題の中心が、翌年1月に刊行される高橋康也さんの次の著書『シェイクスピア時代』(樺山紘一さんとの共著、中公新書)だったというのも不思議な因縁です。
<マクベスという男は魔女の予言を聞いて以来、ほっとけば自然に回転するであろう時間を、自分の手で速く回転させようとした男ですね。しかし結局、そうして急がせた時間が自分を越えて向うがわに落ちる。あれは時間を焦った人間の悲劇ですね。マクベスが時間を急がせたということは、それによって自分の実存の不安を解消しようとしたのだけれども、しかし人間にとってそれがいかに不遜なわざであるかということを、あそこで思い知らされる>(高橋康也・樺山紘一『シェイクスピア時代』、中公新書)
高橋さんの発言です。日常的時間(クロノス)の歩みと、マクベスが巻き込まれた非日常的・危機的時間(カイロス)が対比されます。現代文明の加速する時間がどちらであるかは言うまでもありません。
さて、ずっと買いおいたままだった本を連休中に読みました。早瀬耕『未必のマクベス』(ハヤカワ文庫)という作品です。「異色の犯罪小説にして、痛切なる恋愛小説」と謳われています。
「マクベス」を下敷きにして書かれた現代小説で、いたるところに「マクベス」の解釈や名場面が散りばめられています。なにより登場人物みずからが「マクベス」の悲劇性――破滅に向かう物語――を強烈に意識しながら、動いています。主人公の職場の部下(というか高校時代の同級生)の名前が伴浩輔(ばんこうすけ)で、高校の3年間、彼はクラスメイトから「バンコー」と呼ばれていました。
バンコーとは、いやバンクォーとは、マクベスの戦友でありながら、やがてマクベスの放った刺客に無惨に殺害される将軍です。
「マクベス」の芝居が反乱軍をしずめて凱旋するところから始まるように、この小説の主人公はバンコクでの商談を成功させた帰途、立ち寄ったマカオで、ある娼婦から予言めいた言葉を告げられます。「あなたは、王として旅を続けなくてはならない」。傍らには、バンコーがいました。「マクベス」のバンクォー同様です。
そしてここから、次々と人が死んでいきます、まるでシェイクスピア劇のように。やや強引な筋書きに思えても、主人公らを動かしているのがどうやら人間存在の奥深くにひそむ原初的な情動のようだと感じると、あとは巧みな語り口に乗せられて、一気呵成に600ページの大作を読み切ります。
極力ネタバレにならないように、結末近くの場面を紹介します。サイゴンのホテル・マジェスティックに集まった中井(主人公である「ぼく」)、蓮花(連れの女性)、高木(中井の同僚)の3人の会話です。
<「このホテルはどう? 中井のお気に入りだけど……」
「いいホテルだと思います。内装が少し古くなっているけれど、歴史もあるし、森の都の王城なんて、素敵な名前ですよね」
蓮花の言葉に、ぼくは首をかしげた。マジェスティックは“Majesty(陛下、王権)”から派生した単語だけれど、「森の都」という意味はない。
「森の都?」
ぼくは、蓮花に訊き返した。
「知らないのか。サイゴンは、フランス人が植民地時代につけた名前で、クメール語では『プレイノコール』、森の中の都を意味する」
高木が、蓮花の代わりに答える。ぼくは、ため息をついて、前髪をかき上げた。
「森が動くというのか?」
「はぁ? 急に何を言い出すんだ?」>
この大作を一気読みしたその夜、夢の中に河内大和さんのマクベスが登場しました。びっしょり汗をかいて、目を覚まします。はげしい高熱に襲われていました。翌日から咳がひどくなり、少し前からおかしかった喉の調子が悪化し、声がほとんど出なくなりました。それが約1週間。
メルマガのNo.30に書いたことですが、「マクベス」という劇と向き合うには相当な覚悟が必要です。シェイクスピア劇の生命力、というより魔力の強さをまたもや思い知ることになりました。「バーナムの森」を演じた皆さんのゴールデン・ウィークは、いかがだったでしょうか?
2018年5月10日
ほぼ日の学校長
*「シェイクスピア講座2018」第10回は、受講生以外の方もお誘いして、赤坂・草月ホールで開催いたします。プロの古楽器奏者によるシェイクスピア時代の音楽を生演奏で聴きながら、河合祥一郎さんの講義を受けます。優美な音楽にひたりながら400年前に思いをはせる一夜になるはずです。
ほぼ日の学校スペシャル
「シェイクスピアの音楽会」
2018年5月29日(火)
草月ホール 18時開場 19時開演
21時終了予定
全席指定6,480円(税込み) チケット発売中