ほぼ日の学校長だよりNo.7
「学ぶことは想起すること」
東京の街を西から東へと横断する一日がかりの取材をやりました。4月から始まった「ほぼ日の東京特集。」のフィナーレを飾る「東京の水辺を海に向かって歩く。」という企画です。
10月27日午前10時半、井の頭公園内の「お茶の水」に集合し、神田川(かつての神田上水)の水源を確かめてから、流れに沿って都心へと向かいます。江戸の生活用水・飲み水をまかなった都市水道のはしりが、神田上水です。
午後1時半、文京区目白台にある水神社(すいじんじゃ)で建築史家の陣内秀信さんと合流。桜の名所・江戸川公園をぶらぶら歩きながら、井の頭池からここまで流れてきた水を、生活水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園)方面と、余水として飯田橋方面との左右に分流した関口大洗堰(おおあらいぜき)取水口跡を見るところまでが第一ラウンド。
次は、上野の森と池が接するところ、「山の辺」と「水の辺」に「聖」と「俗」の両面にわたる名所がいくつも形成された上野・不忍池(しのばずのいけ)周辺を散策します。これが第二ラウンド。
最後はまた“水系”に戻り、江戸の運河網を偲ばせる中央区の亀島川水門を見た後で、かつての人気ドラマ「男女七人夏物語」の舞台になった清洲橋たもとの隅田川河岸まで訪れる第三ラウンド。
「水の都」の来歴と構造を改めて全身で体験しようというツアーです。
詳しくはテキスト中継された記事をご覧いただきたいと思いますが、雨の続くこの秋にしては奇跡のような快晴で、気温も絶好の散歩日和となりました。とても充実した一日でした。
思えば、大学生になったばかりの1972年頃から、東京論がブームになりました。高度経済成長が踊り場にさしかかり、それまで見向きもされなかった都市空間のあり方に関心が向きはじめました。心に少し余裕が生まれたのだと思います。
きっかけはおそらく『文学における原風景』(奥野健男著、集英社、1972年)が、戦前の東京・山の手の「原っぱ」のイメージを論じたあたりだったと思います。高度成長期は目前の激しい変化にばかり気を取られ、生活や思考のパターンが機能性や経済性の原理に偏りがちでした。それにわずかな変化の兆しが現れたのです。
東京という町の生態系を、戦前や明治、江戸といった過去にさかのぼり、さらには縄文時代にまで遡行しながら探求しようと、いう視点が芽生えます。そこに生きた人たちの心の原型や、文化を育んできた風土の基層を呼び覚まそうという試みです。
文学者、歴史家、建築家が次々に意欲作を世に問いました。
今回の「東京特集」の最初に登場した藤森照信さんの『明治の東京計画』、『建築探偵の冒険・東京篇』、陣内秀信さんの『東京の空間人類学』、ほかに前田愛『都市空間のなかの文学』、樋口忠彦『日本の景観』、川添登『東京の原風景』、磯田光一『思想としての東京』、海野弘『モダン都市東京ーー日本の1920年代』など、目白押しでした。
いっぽう巷には、沢田研二の「TOKIO」が流れました。先日ほぼ日で掲載された「いきものがかり」の水野良樹さんと糸井重里さんの対談のなかで、この歌の作詞をした糸井さんが、「日本の真ん中にある東京という都市が、実は知らないうちに力をつけて、すごくなっていたんじゃない?」という思いをこめ、近未来的な気分を「TOKIO」という名前に託した、と語っています。
「TOKIO」にも東京論にも共通していたのは、それまでの欧米コンプレックスから少し自由になって、東京を東京として成り立たせている個性を、よりフラットな視点で見直そうという態度でした。それはレトロ感覚というよりも、これから私たちはどこへ向かっていくのだろうかという期待と好奇心(不安をふくめて)なのでした。
そんなことを思い返しながら、一日ツアーを歩いていました。上記の3つのポイントが、どれもおもしろくて、興味はつきませんでした。
徳川家康が「関東随一の名水」とたたえ、茶の湯に使ったという伝説から「お茶の水」と呼ばれる井の頭公園内の湧水口。3代将軍・家光が「このうえなくうまい水を出す井戸」として、いくつも湧水口を持つ池を「井の頭」と名づけたという逸話も、今回初めて知りました。
この池を水源とする神田上水が江戸の人々の生活を支えました。陣内さんと合流した椿山荘(ちんざんそう)の隣の水神社から、大洗堰取水口跡にかけての遊歩道を歩くのも、今回が初体験でした。金曜日の昼下がり、いろいろな人と出会います。犬を連れた奥さん、介助者の手を借り車椅子で外の空気を吸いに出た老婦人、年配のジョガー、歴史探訪「ブラ歩き」の一団……ふだんこんな時間、こんな場所に居合わせることがないので、新鮮です。
上野という町も再発見でした。徳川幕府が京都の町づくりを模して、さまざまな「見立て」をほどこしたとは聞いていましたが、実際にそういう目で風景を眺めるのは初めてです。京都の比叡山延暦寺になぞらえて、江戸城にとって東北の鬼門にあたる上野の山に天台宗・寛永寺が創建されました。不忍池は琵琶湖に見立てられ、竹生島(ちくぶじま)と同様に、弁天が池の真ん中に祀られます。清水寺のコピーのような清水観音堂も、池を見下ろす正面に建てられます。京都風の聖なる空間がつくりだされるとともに、上野の山は花見の名所、庶民の祝宴の舞台になります。
そして明治以降、上野の杜(もり)は博物館、美術館、コンサート・ホール、東京音楽学校・美術学校(いずれも現在の東京芸術大学)など文化・芸術の殿堂として、ハイ・カルチャーの中心になります。
いっぽう、山を下りた周辺はアメ横、大衆的な飲食街、遊興施設、男女の密会エリアとして盛り場の活気に溢れた世俗的な空間が形成されます。山の上の「聖」なる地域と山の下の「俗」空間の中間に位置し、つなぎ目になるのが不忍池です。
このように水は人々の生命を支える面と、ヒト・モノ・情報を運ぶ水運の役割、あるいは聖俗両空間の結節点として、都市を構造的に支えます。
物語性をもった東京の記憶が次第によみがえってきたのは言うまでもありません。同時に、かつてここで暮らし、東京という作品をつくりあげてきた先人たちへの想像力が刺激されます。彼らが何を夢見て、ここに住み、ここで働き、憩い、暮らしたかということが、ぐっと親(ちか)しく感じられます。
不忍池の中ほどで、ハモニカを吹いている老カップルに会いました。ハモニカという楽器の、どこか哀愁を帯びた音色がこれほど心にしみたのも久々です。
土地の歴史や記憶を読み解くことは、私たちが自分の足場をしっかり認識することにつながります。慌ただしく目先のことに注意を奪われ、その日その日をやり過ごしている時に、ふと先人たちが欲し、いのちを豊かにしたいと願った魂のようなものに触れるだけで、あたたかな風が背後から送られてくる気がします。大きな歴史的文脈に自分もまた生かされているというイメージが得られます。
古代ギリシアの哲学者は、「マテーシス(学び)はアナムネーシス(想起)である」と述べました。プシュケー(魂)が生前にすでに知っているはずの大切なことを思い起こすのが、確かな知を学ぶことだ、という意味でした。
どこを歩いていても、古典を教える「ほぼ日の学校」のことが頭を離れない毎日です。
2017年11月1日
ほぼ日の学校長
追記
「ほぼ日の東京特集。」全体のエンディング・ムービーも素敵でした。東京の現在を切り取った約4分間の動画ですが、写真、音楽、言葉が一体化していて、さまざまな感慨が湧き上がってきます。まだ見ていない、という方は、是非ご覧ください。