ほぼ日の学校長だよりNo.30
「マクベス夫人には、
名前がない!」
「演出家・蜷川幸雄のシェイクスピア」を駆け足でたどった山口宏子さんの授業を受けて、今回の講義は「NINAGAWA・マクベス(唐沢寿明主演、2001年)」の話から始まりました。講師は、いまシェイクスピア37作品の全訳に取り組み、完訳まであと4作(!)に迫った翻訳家の松岡和子さんです。
「生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ(To be, or not to be : that is the question.)」(松岡和子訳、『シェイクスピア全集1 ハムレット』ちくま文庫)で始まる「ハムレットの独白(Hamlet’s Soliloquy)」(第3幕第5場)と並んで、シェイクスピアの名セリフのひとつ『マクベス』第5幕第5場の“Tomorrow Speech”を、英語と日本語訳でじっくり味わい尽くそうというのが、今回のハイライトです。
実は、松岡さんとこの講義の内容について打ち合わせたのは、先々週の金曜日(3月30日)の午前中でした。前夜、そのことをぼんやり考えながら眠りについた午前4時過ぎ、「バンクォー!」という突然の叫び声に、起こされました。そう、苦悶するマクベスの絶叫です。
バンクォーとは、マクベスとともにスコットランド王ダンカンに仕えた高潔なる将軍。魔女の予言に惑わされ、みずからの野望を叶えるためにマクベスは主君を殺害します。魔女のことばを一緒に聞いていたバンクォーを怖れるマクベスは、刺客を放ち、彼を闇に葬(ほおむ)ります。
王殺しによって「マクベスは眠りを殺した」、「マクベスはもう眠れない!」と呪われますが、やがてバンクォーの亡霊にも脅かされるようになり、いよいよ破滅の道を突き進みます。
そんなあらすじを、つらつら考えているうちに、すっかり目が覚め、頭が冴え冴えしてきました。仕方なしに起き出し、書棚の奥から松岡さんの『すべての季節のシェイクスピア』(筑摩書房)を取り出すと、いきなり次の記述にぶつかります。
<そうなのだ、東の『東海道四谷怪談』、西の『マクベス』――いずれ劣らぬジンクス芝居。
シェイクスピアが生きていた当時はどうだか知らないけれど、いつの頃からかイギリスやアメリカの俳優たちのあいだでは、この芝居は災いをもたらすと信じられるようになった。その呪いというか、たたりを恐れるあまり、『マクベス』の舞台以外ではその台詞はおろかタイトルすら口に出すのはタブーとされている。
そんなのは迷信だと一笑に付したり、あるいはついうっかりして、楽屋などで『マクベス』の台詞を言ってしまった役者は、何かしらの「たたり」に見舞われてきたのだそうだ>(「もう眠りはない! マクベスは眠りを殺した」、同書所収)
役者やその身内が事故に遭って大けがをしたり、命を落としたり、それまでは淀みなく口をついて出てきたセリフを突如忘れて、役者が舞台で立ち往生してしまう‥‥。その「たたり」を逃れるために、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでは、いまでも『マクベス』を上演する場合は、主役の俳優は毎日劇場のまわりを三回まわってから楽屋入りする、などとあります。
とはいえ、講義の打合せをしようと思っただけの私の夢枕に、なにもバンクォーがいきなり現れなくても‥‥。
さて、“Tomorrow Speech”とは、夫人の死を知らされたマクベスが、「まるで心の痛覚が麻痺してしまったかのように驚きも悲しみもせずにつぶやく」(松岡、同上)重要なセリフです。
ちくま文庫版の松岡訳(『シェイクスピア全集3 マクベス』ちくま文庫)によると――、
<何も今、死ななくてもいいものを。
そんな知らせには、もっとふさわしい時があっただろうに。
――
明日(あした)も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
束の間の灯火(ともしび)!
人生はたかが歩く影、哀れな役者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない>
この原文を、受講生と一緒に声に出して読みながら、松岡さんは「いまだに読み返すたびに発見があり、驚きがある」と、その興奮をわれわれに分かち与えてくれました。「だからシェイクスピアは、いつまでも新鮮でおもしろい」と。
初めてお会いした頃(1980年代の初め)、小劇場ブームの芝居を「わんわん見始めた」ばかりの松岡さんが、その感激をうきうきと語っていた様子を思い出します。杉並第一小学校のやや後輩にあたる川本三郎さんと『東京芝居――小劇場お楽しみガイド』(TBSブリタニカ)で盛り上がっている面影そのままです。
大好きなことを、人がいかにも楽しそうに話しているのを見ると、それだけで幸せな気分に誘われます。今回の松岡さんがまさにそうでした。
先ほど挙げた『すべての季節のシェイクスピア』のなかで、イングリッシュ・シェイクスピア・カンパニー(ESC)の来日公演を観た際の松岡さんの文章もそうです。マイケル・ボグダノフという人の演出で、「マクベス」についていろいろ気づかされた、と記しています。
<とりわけマクベスとマクベス夫人の関係については大きな発見があった。(略)
「強い」マクベス夫人は、一幕七場で王殺しの決心を鈍らす夫を叱咤する。誓いの遂行のためなら、乳を吸う赤ん坊を胸からもぎ放し、脳味噌をたたき出して見せると言う。そう言った直後、ジェニー・クウェイル扮するマクベス夫人は、マクベスの頭をその胸にひしと抱き寄せたのだ。「赤ん坊」ということばの残像が重なるこの一瞬の「絵」によって、マクベス夫妻の関係の底に母子的なものがあることが感じられた。(略)なるほどと腑に落ちた。夫に対する彼女の大きな支配力、圧倒的な影響力が納得できるではないか>
ところが、第3幕第1場になると、マクベスは肝心な場面で夫人を追い払います。バンクォー殺しを刺客たちに命じる場面です。
<この場に至るまで、マクベスとマクベス夫人は何もかも一緒にやってきた。王位に就きたいという野心も、王の暗殺計画も、その実行も、すべて二人は共有してきた。だから夫人にしてみれば、バンクォー暗殺にも同じように一枚噛んで当り前なのだ。ところが、ここで彼女は共犯からはずされる、これ以後、「母親離れ」した「息子」は一人でことを運ぶ。彼女のショックはいかばかり>
ここから彼女の精神のバランスが崩れ始めます。「彼女は、夫マクベスと一心同体でなければ何者でもなくなってしまうのだ。この舞台を見ていると、のちの彼女の精神錯乱と夢遊病も、遅ればせの罪の意識だけが原因ではないと思えてくるのだ」――。
筆の運びに、シェイクスピアをより深く知ることの喜び、幸福感が溢れています。そして、松岡さんはここでハタと思い当ります。シェイクスピア全37作品に登場する主役級すべての登場人物――男女を問わず――のなかで、「名前がないのはマクベス夫人だけだ」と。
<彼女には名前が与えられていない。あくまでもマクベス夫人であって、夫の名を取ってしまえばまさに何者でもなくなる。それがマクベス夫人の悲劇である。ボグダノフとペニントンの舞台はそれを教えてくれた>
『マクベス』の世界がいっそう生き生きと迫ってきます。
さて、今回の講義が始まる前、私は「ほぼ日」が入っているビルのまわりを3回まわりました。受講生にも松岡さんにも、わざわいが起きませんように! そして、私にもほぼ日乗組員にも、安らかな眠りが訪れますように!
2018年4月12日
ほぼ日の学校長
*「シェイクスピア講座2018」第10回は、受講生以外の方もお誘いして、赤坂・草月ホールで開催いたします。プロの古楽器奏者によるシェイクスピア時代の音楽を生演奏で聴きながら、河合祥一郎さんの講義を受けます。優美な音楽にひたりながら400年前に思いをはせる一夜になるはずです。
ほぼ日の学校スペシャル
「シェイクスピアの音楽会」
2018年5月29日(火)
草月ホール 18時開場 19時開演
21時終了予定
全席指定6,480円(税込み) チケット発売中