ほぼ日の学校長だよりNo.17
「あと1000冊の読書」
年末の恒例になっている書棚の大整理を行いました。床に積み上がり、あちこちの棚からはみ出た本を300冊あまり、まとめて古本屋さんに引き取ってもらいました。
今回、いつもと少しやり方を変えたのは、何を残すか、残さないかという線引きの基準です。「ほぼ日の学校」がいよいよ始まるということもあり、全体を<古典>シフトにしたのです。
といって、それほど意識的にやったという感じでもありません。結果としてそうなったというのが実態に近いでしょう。ただ、これからの自分の持ち時間を考えたうえで、この本は読み返すことがあるだろうか、持っていていずれ読むことがあるだろうか、と点検した時、いつになく処分する際の思い切りがよくなりました。
結果として、古典といわれる作品が、しぶとく残る結果になりました。
山田風太郎さんに『あと千回の晩飯』(朝日文庫・角川文庫)という著書があります。「いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」と書き出された老境のエッセイです。亡くなる4年前、75歳の年に出版されました。
最期に悔いを残さないよう、「あと千回分の晩飯のメニュー」をあらかじめ作っておこうと発意する話ですが、そのひそみにならって「あと1000冊の読書」を考えてみるのもおもしろいか、と思いました。
これまで基本的には、興味のおもむくところ、何でも手当たり次第に読んできました。あれを読まなければ、これをまだ読んでいないぞ、と追い立てられる気分もつきまとっていました。この辺でギアを切り替えてもよさそうです。
別段「守り」に入るつもりはないのですが、「攻め」の質を考える潮時のような気もします。若い時に読んだ本を読み直したい気持ちも強まっています。古典は特にそうです。
懐かしい映画を見直したり、好きな曲を何度も聴くように、気に入った古典を気ままに読み返すのはおもしろいものです。一度通った道なので、気持ちに余裕があります。心に響くフレーズが明らかに変わってきています。
以前はいったい何を読んでいたのだろう? 意外な発見に驚かされることもしばしばです。
義務感がないだけ、途中で休んだり、脇見をしたり、飛ばし読み、拾い読みするのも自由です。量とスピードを競う「近代読書」におさらばして、ゆったり本を楽しみたくなりました。
最近は、海外の作品も、日本の古典も、優れた新訳が次々に出ています。それを読むのも新たな楽しみです。
小林秀雄はつねづね、「古典は現代語訳で読んではいけない、古典は意味よりも姿である、姿に親しむことが大事である、現代語訳はその姿を消してしまう、だからいけない」と戒めていたそうです。直接、小林秀雄に接した先輩編集者の話を聞くと、いつも粛然とします。ただ、自分の持ち時間と欲求のバランスを考えると、別の道を歩むしかないかと思います。
それはともかく、「いろいろな徴候」から考えて、これまでと同じように人と会い、話をし、活動し、本を読めるのはあと何年だろうか、と考えます。その何年かのあいだに読みたいと思う本であるかどうか、読み返したい本かどうか。積み上がった本の山をそういう目で眺めると、意外に躊躇なく選別できることに気がつきました。
まだ作業の途上なので、部屋がすっきり片付いたわけではありません。ただ、出処進退の大方針を決めたかのような爽快感、晴れやかさを抱いて、新年を迎えることができました。
山田風太郎さんの話にはオチがあります。
<自分の余命はあと数百回の晩飯を食うに足るのみ、と漠然と予感してから、もはや一食たりともあだやおろそかに食事はしない、と発心したものの、いざ実行するとなれば、食事というものは欲するときに欲するものを食ってこそ美味しいのであって、何年も前から作成された献立表など、有害無益以外の何物でもない、と悟った>
本との付き合い方はずっと大きなテーマでした。まだまだきっと迷い続けることでしょう。「あと1000冊」をあらかじめ決めることなど、所詮ムリな話です。それでも、いま身辺整理する意味はあったかと思います。
2018年1月10日
ほぼ日の学校長
*古本屋さんに引き取ってもらったもの以外に、かなり取り分けた分があります。これは、自分がじゅうぶん楽しんだので手放すことに決めたけれど、誰かまわりの本好きに読んでほしいと願う本です。「生活のたのしみ展」で好評だった「古本X」の次回候補です。