ほぼ日の学校長だよりNo.22
「漱石先生と沙翁」
昨晩、河合祥一郎さんの2回目の講義が行われました。スキージャンプでいえば、1本目が飛距離、飛型ともに完璧のジャンプだったので、2本目は金メダルを意識して‥‥という心配は、まったく無用でした。
「シェイクスピアは、本当はいなかった」といわれる諸説を撃破して、16~17世紀イギリスの時代背景を概観し、シェイクスピア・マジックと呼ばれる劇のタネ明かしをしながら、またもK点越えの大ジャンプを披露してくださいました。
河合さんには、このあと2回登壇していただきます。古楽器の生演奏を聴きながらの「シェイクスピアと音楽」(5月29日)、木村龍之介さんとの“共演”になる最終講義「シェイクスピアのある人生」(7月24日)です。いまから楽しみです。
さて、前回書いた「名セリフあれこれ」には、思いがけない反響をたくさんいただきました。シェイクスピアのセリフの底力を感じます。そんな中で、作家の発案ではないけれども、普及させたのは間違いなくシェイクスピア劇がきっかけだ、という例を思い起こしました。
「恋は盲目」 Love is blind.
複数の作品に出てきます。『ロミオとジュリエット』? いえいえ、有名なのは『ヴェニスの商人』第2幕第6場の次のシーンです。悪役をあてがわれたユダヤ人の高利貸しシャイロックの娘ジェシカが、少年の姿で舞台に現われます。恋人のロレンゾーにこう言います。
「夜でよかった――こんな恰好をあなたに見られなくて――/だって、こんな姿、とても恥ずかしいのよ。/でも、恋は盲目。恋する者には、/自分でやっている馬鹿げた振る舞いが見えないんだわ。/だって見えていたら、キューピッドだって顔を赤らめるわ、/私がこんなふうに男の子に変わってしまっているのを見て」(『新訳 ヴェニスの商人』河合祥一郎訳、角川文庫)
次に、「ブルータスよ、お前もか」はあまりに有名です。『ジュリアス・シーザー』第3幕第1場に出てきます。
Et tu, Brute?
ラテン語の発音だと「エ・トゥ・ブルテ」。暗殺計画があるとも知らず、広場に出たシーザーは、そこで数名の共和主義者たちに取り囲まれ、彼らの剣の前に斃(たお)れます。そのなかに、親友と思っていたブルータスの姿を認め、「お前もか、ブルータス?」といって絶命するのです。
古くからの伝承を名セリフとして定着させたのがシェイクスピア。Bruteのところに、別の“裏切り者”の名前を代入すればOKです。
そんな話をしていた時に、『三四郎』(夏目漱石、岩波文庫)に出てくる「可哀想だた惚れたって事よ」も、たしかシェイクスピアのセリフだったはず、と思い出しました。
Pity is akin to love.
『三四郎』第4章にあります。広田先生の引越しの手伝いに集まった三四郎、美禰子、与次郎といった面々が、仕事の手を休めて雑談に興じます。その時、イギリスの戯曲に出てくるこの語句を訳してみようとなり、与次郎が「これは、どうしても俗謡で行かなくっちゃ駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」といって、「可哀想だた惚れたって事よ」と訳します。聞くなり広田先生が、「いかん、いかん、下劣の極(きょく)だ」と苦い顔をし、一堂が笑い出すという場面。
てっきりシェイクスピアのセリフだと思い込んでいましたが、『三四郎』のテキストにあたると、出典はサザーンという人のまるで別の戯曲でした。「あれッ」と思って調べると、河合さんの『シェイクスピア』(中公新書)が救ってくれました。
<‥‥この英文(Pity is akin to love. 引用者註)のもともとの出典は『十二夜』の次の会 話であろう。伯爵家の令嬢オリヴィアが男装の麗人ヴァイオラを男と勘違いして惚れてしまい、「私のことをどう思っているの」とヴァイオラに迫るくだりだ。
ヴァイオラ 可哀想だと思います。
I pity you.
オリヴィア それは恋の第一歩ね。
That’s a degree to love.
(第三幕第一場)>
英文学者・夏目漱石は、シェイクスピア作品をもとにいくつか俳句も詠んでいます。「子羊物語に題す十句」という短い文章がそれで、チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』(岩波文庫、上下)が明治38年に『沙翁物語集』という題名で翻訳された時、序文に俳句10首を寄せました。
冒頭は、『リア王』第2幕第4場。娘二人に背かれたと知った老残のリア王が、「‥‥いいか、人でなしの鬼婆、/貴様ら二人に復讐してやる、/(中略)俺が泣くと思っているな。/いや、泣くものか」と独白します。「泣くだけの理由は山ほどある。(遠くで嵐、雷鳴)/だが、この胸が/粉々に砕け散っても/断じて泣かない。ああ、阿呆! 気が狂う」(『シェイクスピア全集5 リア王』松岡和子訳、ちくま文庫)
このリア王のセリフを引用した後、漱石はそれを俳化します。
<I have full cause of weeping, but this heart
Shall break into a hundred thousand flaws
Or ere I’ll weep. O fool! I shall go mad.
雨ともならず唯凩(こがらし)の吹き募る>
これを最初に見た時は、シェイクスピア作品のエキスを俳句に仕立てようという漱石の大胆な発想に驚きました。西欧文学の古典をどう「和」の文化につなげるのか、と真剣に考えた明治人の気概に圧倒されました。その思いはいまも変わりません。
ただ、この場面に続く第3幕第2場で、リア王は「風よ、吹け、貴様の頬が裂けるまで! 吹け! 吹き荒れろ!/豪雨よ、竜巻よ、ほとばしれ!/(中略)恩知らずな人間の種という種を/ただちに破壊しろ!」と呪詛(じゅそ)のことばを吐き、荒野をさまよいます。その運命、心境を思うと、俳句はどうしても軽く感じられます。
『オセロー』第5幕第2場のクライマックス・シーンもそうです。愛する妻デズデモーナの不貞の妄想に苦しめられ、嫉妬の鬼と化したオセローが、蝋燭の明かりを手に妻の寝室に入ってきます。「だからやる、だからやるのだ、俺の魂!/清らかな星々よ、口に出してわけを言わせるな!/だからやる」(『シェイクスピア全集5 リア王』松岡和子訳、ちくま文庫)。
こうしなければならないのだ、と自分に「義」を言い聞かせ、妻を絞殺する決意を秘めて入ってきます。この作品では、オセローが肌の黒いムーア人の王であり、デズデモーナが白人だという設定が重要です。続くオセローのセリフ――「だが、血を流すのはよそう、雪よりも白くアラバスターの像よりもなめらかな/あの肌を傷つけるのもよそう」――に、漱石は俳句を寄せます。
<Yet I’ll not shed her blood;
Nor scar that whiter skin of hers than snow
And smooth monumental alabaster.
白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏かな>
アラバスターというのは白色半透明の美しい大理石のこと。オセローの黒、デズデモーナの白、血の赤という強烈な原色のコントラストに、はらわたを引き裂かれるようなオセローの苦悩と葛藤が浮かび上がります。
それだけに、「白菊」の句は、油絵のどぎつい色調に対して、淡彩な俳画のおもむきが際立ちます。“和魂洋才”の苦難の道のりを象徴するように――。
昨年秋、二松学舎大学を表敬訪問し、写真の「アンドロイド夏目漱石」に対面しました。古典を学ぶ「ほぼ日の学校」をシェイクスピア講座から始めるにあたって、ひと言挨拶は欠かせないと思ったからです。
シェイクスピアの表現を日本語の文脈にどう移しかえるか、いかに共通の理解を深められるか。漱石の真剣な気迫に感じ入ります。
東北大学附属図書館にある漱石の旧蔵書コレクションを前に(とりわけほとんどの余白にびっしりと書き込みの残った分厚い『英熟語表現辞典』を目の当たりにして)、英語の習得に漱石が傾けた情熱に「私は完全にノックアウトされた」と脱帽した向井万起男さんも、5月15日、講師として登場されます。
2018年2月15日
ほぼ日の学校長