ほぼ日の学校長だよりNo.116
それでも鳥は、春を告げる
本来なら、3月7日、8日は梅ほころぶ太宰府にいるはずだった‥‥。
そんな恨めしい思いを抱きながら、冷たい雨の空を見上げ、この土日を過ごしました。新型コロナウイルスの感染拡大問題で、「ほぼ日の学校万葉集講座 太宰府修学旅行」の実施をやむなく見送ることにしたからです。
改めて、『万葉集』巻5「梅花の歌三十二首」の「序」を読みました。
「初春の令月にして 気淑(よ)く風和(やはら)ぐ」――新元号「令和」の典拠となった文章です。天平2年正月13日、大宰帥(だざいのそち)大伴旅人の邸宅で催されたわが国最初の大和言葉による歌会のプロローグ――。
テキストは漢文で書かれ、おそらくは大伴旅人自身の筆になると言われます。大岡信さんの現代語訳で紹介します。
<天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸宅に集まって宴を開いた。時は初春のよき月、気は澄んで快く、風は穏やか。梅は鏡の前の白粉(おしろい)のように白い花を咲かせ、蘭は白い袋の香のように良い香りを発している。加えて、夜明けの峰には雲がかかり、松はその雲の薄絹をかけて、あたかも蓋(きぬがさ)を傾けているようだ。夕方の山の頂きには霧がかかり、鳥はその霧のうすものにとじこめられて林中にさまよっている。庭では今年の新しい蝶が舞い、空には去年来た雁が北へ帰ってゆく。>(大岡信『私の万葉集』二、講談社文芸文庫)
ここしばらく、新型ウイルスという目に見えない相手に脅かされ、身も心も縮こまりがちの私たちからすると、何とも羨ましいような、豊かで落ち着いた時間の流れがここにはあります。序文はさらに続きます。
<そこで天をきぬがさにし、地を座席にし、膝つき合わせて盃をにぎやかにかわす。一室に坐してはうっとりと言葉も忘れ、煙霞の彼方に思いをはせて互いに胸襟をひらく。淡々(さっぱり)としておのずから各人気ままに振舞い、心楽しく満ち足りた思いでいる。もし文筆によるのでなければ、どうしてこのような情緒を述べることができよう。漢詩にも梅花の散るのを詠じた詩篇がある。昔も今も、いったい何の違いがあろうか。
さあ、われらもよろしくこの園の梅を詠じて、いささか短い歌を作ることにしよう。>(同上)
そして32人の主客による32首の歌が唱和され、宴の主人である大伴旅人も披露します。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも (822)
<白梅の花が散るのを、大空から雪が流れてくるのだろうかというのですから、誇張も甚だしい。しかしこの歌の流麗な調べは、三十二首全部を通じて抜群の詩心の流露を示しています。清爽の気がみなぎっていて、歌の丈(たけ)の高さが、他の人々と違うのです。旅人は天性の抒情詩人だったと、あらためて思わせるものがあります。>(同上)
大岡信さんはこのように解説しています。
読んでいるうちに、少し気持ちが晴れ晴れしてきます。太宰府に行けなかったことは残念ですが、『万葉集』への旅は、いつでもこうして可能なのだと思えるからです。
ほぼ日の学校は、3月いっぱいオンライン・クラスを無料公開にしました。「春です。春期講習です!」と大々的に呼びかけました。家にいて「新型コロナの最新情報」をチェックすることも大切ですが、少し余裕のできた時間を使って、こういう時こそ古典の世界に触れてみるのもいいものです。
たくさんの方がさっそく活用してくださいました。次々と感想が寄せられています。引き続き、じっくり楽しんでいただければと思います。
そんなことを考えながら、手に取ったのがエッセイスト・三宮麻由子さんの『四季を詠む――365日の体感』(集英社文庫)です。最近、文庫化されたので、もう一度読み直したいと思っていました。とくに「春」の章を重点的に!
以前、私が編集長をしていた雑誌で連載をお願いしました。その初回に、彼女が寄せてくれた文章です。
<四歳のとき、私は目の手術によって視力をなくした。目で見える景色(シーン)が眼前から消えた。この状態を、私は「シーンレス」という和製英語で呼んでいる。視力等級でいうと全盲を意味する。
成長とともに、音など視覚以外の情報を元にした私なりの「シーン」が育った。自然の音を風景として聞くことは、この「シーン」の重要な部分を占めている。多数の鳥の声の種類をおぼえておくと、野山を訪ねたとき、鳥の声の種類や鳴き方を頼りに、新緑や紅葉、枯野の雰囲気といった風景を脳裏に想像できるようになった>(『考える人』2014年秋号、「暮らしのサウンドスケイプ」第1回「風の音」)
鳥の声を200種以上聞き分けられるという三宮さん。彼女のピアノコンサートを聞きに行った時に、ウグイスの「ホーホケキョ」を何種類か口笛で鳴き分けてくれました。山でウグイスと「20分間会話した」というご自慢の話も聞きました。部屋に飛び込んできたゴキブリとの“壮絶なバトル”を、ピアノと語りで再現した音楽劇は圧巻でした。
彼女の耳の鋭敏さは、知れば知るほど驚かされます。しかし、それ以上にいつも全身が揺さぶられるほど感動するのは、聴覚だけでなく、嗅覚、味覚、触覚、あらゆる感覚器官を研ぎ澄まし、そして知的な想像力をフル稼働し、彼女が引き寄せてくる「景色」の瑞々しさ、鮮やかさ、深さに触れた瞬間です。
<私にとって空は、うわさで聞いた未知のもので、本当に存在するのか確かめようもない相手だった。ところが、鳥たちのメッセージを傍らで聞かせてもらうことで、その空が本当にあることを確かめられたのだ。>(『鳥が教えてくれた空』集英社文庫)
こう語る彼女は、やがて鳥の声を聞き分けるうちに、その響きで山が迫っているかどうかを察し、空の深さを知り、頭のなかに立体的な地図を浮かべるようになった、というのです。
すると、いつしか足元の植物のたてる音にも耳をそばだて始め、季節の移ろいや自然の時の流れを感じとります。“音の目線”に導かれ、景色(シーン)が立ち上がってくるのです。そしてついには、「自分がいまここに生かされている」という自然のなかに組み込まれた生きものとしての生の実感が訪れてきます。
先の本の「春」の章には、「春を聴く」「春に触れる」「春の匂い」「春を食べる」の文章が並んでいます。聴覚、触覚、嗅覚、味覚の4感で季節を表現したいという狙いです。どの章にも新鮮な驚きやたのしい発見が満ち溢れています。
<春は四季を通じて一番香りの数が多く、またその種類も多彩な季節のように思う。「梅二月」は私が最も愛する季語の一つだが、その梅の前には、すでに臘梅(ろうばい)という別種の花が気品と爽快さに満ちた香りを放っている。臘梅の終わりと重なるように梅が莟(つぼみ)をつけ、開花すると、淡いが底抜けに明るい香りが溢れてくる。
開花後の香りは、紅梅と白梅でまったく違う。紅梅は臘梅に近い甘さをたっぷり含んでいて、吸い込むと鼻腔(びこう)と喉で梅のキャンディーを楽しむかのような美味しい匂いである。一方白梅の香りには、やや粉っぽさがあり、紅梅のような甘さは感じられない。だがとても花らしい高貴な香りで、淡さ故の気品があるのだ。面白いことに、ピンクの梅の香りには、紅梅の甘さと白梅の粉っぽさが絶妙なバランスで混在している。ピンクが赤と白のミックスであることが、香りで実感できるのである。>
<こうして梅の香りがたけなわになってくると、地上の風の匂いがいよいよ春めいてくる。「春めく」「夏めく」などの言葉は、前の季節の終わりに次の季節の予感がするという意味ではなく、その季節が本当に進んできた感じを表すときに使う。「春めく」なら、三月ごろ、春がいよいよ加速度的に進んできた時期の言葉である。>
ふと思い立って、三宮さんに電話をしました。昨今の新型コロナの騒ぎの渦中で、どうしているかと気になったからです。
ふだんは外資系の通信社にお勤めですが、今回のケースでは、会社が安全に対して配慮してくれた、とのこと。たとえば、自分から人との距離を取るのが難しいなど、ウイルスから身を守るうえでのハンディがあります。移動の際の感染リスクが高まります。また通勤の際にホームドアのない駅や、ひどい混雑時の乗り換えでは駅員に誘導してもらうなど、介助を受けざるを得ない場面があります。その際の濃厚接触もリスク要因になるわけで、こんな点も会社は理解を示し対応してくれた、感謝している、と明るい声で話します。
コロナウイルスが不安視され始めた2月の半ば、三宮さんは自らのブログで「シーンレスの『触る』生活の中で」という文章を書きました。彼女らしい鳥の話も出てきます。
<私がやや神経質に手を綺麗にするようになったのは、親元で小鳥を飼ってからだと思います。『鳥が教えてくれた空』に書いたソウシチョウたちです。彼らの世話を素手で行った後には、必ずしっかり手洗いをしました。鳥かごに触れたときもそうでした。(略)
彼らは、とても熱心に羽繕いをします。暇さえあれば、一日中やっていると思うくらい。(略)羽は彼らの命を守る大切なものなのです。それを丁寧に繕うフワッ、キュッという音を聞きながら、私は彼らのひたむきな羽への気遣いに心打たれたものでした。
小鳥にとっての羽は、私にとっての手だと、このとき思いました。そしてそんな経験から、私は自分の手を前よりも大切にするようになりました。ピアノや点字を扱うため、指先の感覚は敏感で、少しでも濡れたり油分が多いととても気になります。(略)指先は、単に美しくするだけでなく、清潔で、いつも同じ状態に保っておくことが大切、そして、特にシーンレスにとっては、手が清潔であるということは、小鳥たちにとって羽が綺麗であるのと同じく、命に直結する大切なことなのだと思います。
(略)
シーンレスは常に「ものを触る」生活だからです。たとえば私の場合、ドアノブの位置を探すという動作一つ取っても、見える人のようにストレートにノブに手が行くときばかりではありません。ドアのどこかに触り、そこからノブを探すこともよくあります。エレベーターのボタンも同じ。点字表示も触らなければ読めません。杖を持った手で食事をしたり顔を触ることもありますから、杖も綺麗にしておかなければなりません。「トイレの後は手洗いを」というレベルではなく、このくらい気遣いしないと自分の衛生は護れないし、手引きしていただくときに相手に不快な思いをさせてしまうことにもなりかねません。だから私は、ある一線を自分の中に造り、それを超えることがあった場合は必ず手を綺麗にするようになったのです。>
前々から、潔癖すぎるほど指先に神経を配る人だと思っていたのですが、この文章を読んでその理由がよく理解できました。そして三宮さんの生活習慣は、いまや日本中での徹底が「推奨」「指導」されるようになりました。
「いいことだと思います」――三宮さんは語ります。「ルーズな衛生状況の中にいて好ましくない何かが起きたとき、潔癖すぎると笑った人がはたして助けてくれるでしょうか」
そんな話をするうちに、思い出したように彼女が話題を転じます。
「それでも鳥たちは、春を告げます。カラスもウグイスも鳴いています。ヒヨドリも鳴きます。春が来ているのだと、ほっとします」
思わず、尋ねてしまいます。「カラスの春鳴きって違うんですか?」
「長く引きずるように甘ったれた声で鳴きますね。求愛モードが入ってます。子ガラスの声も混じってます。
ここへ来て鳥たちの鳴き方が変わったなぁと感じます。春を迎えているんです。地上で何が起ころうと、自然はそれに関係なく動いています。ふとそれを感じると、空を見上げた時のように、心が正常に戻ります。でもこういう時は、それをよほど意識して心がけないと、なかなかそういう気持ちにはなれません」
最後の言葉に、ハッとしました。ツアーに行けなかった悔しさから、『万葉集』を経て三宮さんのエッセイにつながり、最後にご本人から思いがけないプレゼントを贈られた気がします。
日常の行動に制約が生まれ、不自由さばかりが際立つ日々。とはいえ、心がけひとつで言葉による想像力の旅に出ることは自由だし、三宮さんの受容力には及ばないまでも、耳をすませば日常にひそむ新しい次元の世界に出合うことも可能です。
いま私たちが試されているなかには、そうした平衡感覚も含まれているのだと思います。
2020年3月12日
ほぼ日の学校長
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