ほぼ日の學校長だよりNo.151
司馬さんの「神田界隈」
神田にほぼ日が引っ越して以来、この町の話を何かとしゃべる機会が増えています。先週もそんなことがありました。
神田という地名、いったいいつごろ覚えたのだろう? 東京生まれでない私も糸井重里さんも、「最初はラジオからではなかったか」という、一つの仮説を立てました。
思い浮かべるのは、「赤胴鈴之助」のラジオドラマです。当時、小学生だった吉永小百合さんが出演していた伝説の番組。
「ちょこざいな小僧め、名を、名を名乗れ!」
「赤胴! 鈴之助だ!」
神田お玉ヶ池、北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士。これが最初だったのではないか、と思えるのです。
その後は、遠州森の石松の「江戸っ子だってねぇ。神田の生まれよ」という浪曲師・広沢虎造の名調子や、大川橋蔵演じる神田明神下の目明(めあか)し、銭形平次などを通して、「なんたって神田」の気質に触れます。
古関裕而作曲、藤山一郎の歌う「ニコライの鐘」のニコライ堂が神田にあることも知りますし、世界に冠たる古本街、神田神保町という名称も、いつしか憧れを誘う地名として、しっかり頭に刻印されます。
ニコライ堂
「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)」「なんだ神田の大明神」です。
さて、北辰一刀流の千葉周作。私にとって、その人物イメージはすべて司馬遼太郎『北斗の人』(角川文庫)によっています。
神田神保町の古本屋街
そもそも千葉周作の名前を聞いて連想したのは、柔道の三船久蔵十段のような、小柄な体格にもかかわらず、「空気投げ」のような決め技で大きな相手をなぎ倒す、初老の名人の姿でした。
ところが、『北斗の人』に登場するのは、「座敷の鴨居にあごをのせられるほどの」偉丈夫で、とんでもない怪力の若者です。
酒に酔って上機嫌のときは、「おもしろい芸を見せて進ぜる」と言って、「厚さ六寸(約20センチ、引用者註)の碁盤を片手でつかみ、それを扇子(せんす)のように打ちふって五十目蝋燭の火をあおり消した」とか、膂力(りょりょく)の強さは桁外れ。
その一方で、きわめてクールな「知」の人です。「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編みだした」というのです(司馬遼太郎『街道をゆく36 本所深川散歩・神田界隈』朝日文庫)。
<周作は、天性の合理主義者らしい。
古来、兵法というものは、その本質が徹底的な合理主義でできあがっているにもかかわらず、どの流儀も、流祖が神の啓示によって一流をひらいたとか、あるいは伝書の表現や組太刀(くみだち)の名称に神秘的な名をつけたりして、外装を事々(ことごと)しい宗教性で包んでいる。>(『北斗の人』)
たとえば「金翅鳥王剣(こんじちょうおうけん)」という太刀の名称があるのを聞いて、「どんな剣か」と周作は目を輝かせますが、要は「上段より打ち挫(くじ)く剣のことだ」とわかって、失望します。
「こういう誇大な名称をつけたがる兵法家特有の精神」は不快だし、浅薄で物欲しげだと見切ります。であればこそ、みずからは独自の理想を求め、日本剣術の革新となる一流をひらこうと心に決めます。
「剣の要諦(ようたい)とは何か?」と聞かれると、剣術家は常として「曰(いわ)く、無」などと、わけのわからない哲学的な表現をとりますが、周作は「夫(それ)剣は瞬息(しゅんそく)」とのみ教えます。
<剣術の要諦はつきつめてみれば太刀がより早く敵のほうへゆく、つまり太刀行きの迅(はや)さ以外にはない。ひどく物理的な表現であり教え方であった。周作は剣を、宗教・哲学といった雲の上から地上の力学にひきずりおろした、といっていい。>(同)
<周作というのは剣法から摩訶(まか)不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場であたらしい体系をひらいた人物である。この点、日本人の物の考え方を変えた文化史上の人物である‥‥。>(同)
理をきわめた、誰にでも腑に落ちる指南なので、自然、彼の道場の門を叩く弟子が非常な勢いで増えていきます。
「剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎(かのうじごろう)に似ている」と、司馬さんは記します(『街道をゆく36』)。
ちなみに「北辰一刀流」の「北辰」とは北斗七星のこと。千葉氏は平安時代からの古い家柄で、下総(しもうさ)国千葉でおこり、源頼朝の鎌倉幕府の創設に参加した後、一族は四方に広がります。
周作の父が語るには、「千葉の家は‥‥奥州へ流れ、いつのほどか半農半士となり、さらにくだってただの百姓になった。しかしいつまでも百姓ではないぞ」(『北斗の人』)という来歴です。
千葉氏は古来、北斗七星(北辰)、すなわち妙見(みょうけん)菩薩という古代中国の月星信仰から生まれた渡来の神を、一族の守護霊として祀(まつ)ります。家紋も星辰(せいしん)をかたどっていて、周作が自らの一刀流に“北辰”とつけたのは、千葉氏の一刀流ということです。
『竜馬がゆく』(文春文庫)の坂本龍馬は、土佐から江戸に剣術修行にやって来て、周作の弟の貞吉(定吉)の道場で心技を磨きます。あの青春ドラマの最初のヤマ場が、北辰一刀流との出会いです。
北辰一刀流について調べ始めると興味は尽きず、妙見信仰の話にもどんどん深入りしそうになりますが、いまは神田にちなんだ玄武館、すなわち千葉周作道場の話に戻ります。
あと50年遅く生まれていれば、剣術使いではなく、「自然科学者になっていたかもしれない」(司馬)という千葉周作は、音楽教育のスズキ・メソードならぬチバ・メソードとも言うべき画期的な指導法を編み出します。
他道場で3年かかるところを、千葉に通えば1年で功がなる、5年の術は3年でマスターできるとの評判がたち、道場は空前の盛況をきわめます。晩年の弟子の数を入れると、門人5千人と言われます。
その道場から坂本龍馬や、新選組を組織する清河八郎、桜田門外の変に参加する有村次左衛門などが輩出します。剣術道場でありながら、他面、先鋭的な「思想学校のような性格」を帯びます。それが神田お玉ヶ池にありました。
<(池はどこにある)
と、周作がそのあたりをさがしたが、それらしいものはなかった。伝説では家康入府の前後、このあたりがまだ荒蕪(こうぶ)の低湿地であったころ、お玉という娘がなにかの事情で入水した。里の者が池畔に祠(ほこら)をたてたが、その後、江戸の湿地が埋めたてられて屋敷町や町方になっていったときこの池も埋められ、祠も、いつのほどか稲荷社として信仰されるようになった。>(『北斗の人』)
現在は、道場のあともありません。お玉ヶ池という地名も残っていません。いまの神田岩本町、同東松下町、同須田町2丁目一帯だというのですが、よほどの案内を得ない限り、往時を偲ぶよすがはとても見つかりそうにありません。
司馬さんも『街道をゆく』の中で、
<‥‥あまりの変わりようにおどろいた。
こまかく切りきざまれた地所の上にウイスキーの箱のような縦長のビルがひしめき、土一升も営業目的以外には使わないというまちになっている。
空もせまく、電線が網のように張っていて、息ぐるしかった。>
と描いています。
周作道場の隣には、儒者東条一堂の学塾がありました。その並びの空き地に、周作の玄武館が建てられます。
小説の中で東条一堂は、ひと目見るなり、隣に越してきた周作の人物を見抜きます。「この若者、いける」となって、酒を汲みかわし、その剣の話を聞くや、「貴殿の剣理は、鬼神の神秘をもって装飾しようとしていない」「わが学問の友たりうる」と述べて、いよいよ周作に惚れ込みます。
そして、続く場面がふるっています。
<そのあとが意外に俗な話になった。この俗っぽさは周作にも多少ある。
「たがいに連繋(れんけい)しよう」
という意味のことを、東条一堂ほどの大学者がいったのである。要するに、文は東条塾に武は千葉塾玄武館へ、という習慣を自然のうちに江戸の青年につけさせようというのであった。文武、隣り同士なのである。青年たちにとっても大いにたすかるであろう。>
かくして神田お玉ヶ池、北辰一刀流の千葉周作道場と、隣の東条一堂の学塾は、ともに江戸第一の繁栄を示すようになります。「最初は、千葉の若僧はおれの学問のおかげで剣を繁昌させた。しかしあとは逆におれの学問は千葉の剣のおかげで天下に普及した」と東条一堂は笑ったそうです。文武両道がまさに隣り合わせで深く交わり、幕末から明治に向かう時代の気運を作り上げたというわけです。
さてここからは、やや我田引水なのですが、ほぼ日の學校は神田ポートビルに引っ越してきました。地下には、フィンランドサウナが入ります。目下、工事中ではありますが、やがて完成の暁には、名古屋のサウナラボが東京に初めてやってきます。空間的には左右の隣り同士ではなく、上下の関係になりますが、學校とサウナ、これぞいまふうの文武両道ではないかと思うのです。
この世界観を神田ポートビルの地下へ。
国立公園の湖畔に佇むスモークサウナ
(グリーンウィンドウ、フィンランド)
写真・池田晶紀
ほぼ日の學校でアタマと心を、サウナで心とカラダを整える。お互いの「連繋(コラボ)」が果たせれば、天下の賑わいも生まれるのでは‥‥。
2021年の「初夢」を、1月の最後に書き留めておきます。
2021年1月28日
ほぼ日の學校長
*来週は都合によって休みます。次回は2月11日に配信します。
*ほぼ日の學校神田スタジオでの公開授業収録参加者を募集しています。募集授業一覧はこちらからご確認ください。(※感染防止対策を徹底した上で収録いたします。また今後の状況次第では急遽開催中止となることもございますので、ご理解の上ご応募ください。)
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