毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
WEB上で、連載小説を掲載してみます。 邱永漢さんが、ドンと過去の傑作を 寄付してくれましたので、 藤城清治さんの影絵とともに、毎日連載します。 |
四 真理の道 さて、極楽浄土で洗脳を受けた三蔵は、 もはや過去の三蔵ではなくなっていた。 彼の魂は既に肉体を離れ去り、 肉体はあの谷川に沈んでしまっていたからである。 ふと気がつくと、三蔵は雲の上から下界を眺めていた。 「わあッ。大へんだ」 墜落の意識にとらえられて、三蔵は思わず叫び声をあげた。 しかし、雲は悠々と上空を流れていて、 その上に立った三蔵は不思議な安定感に支えられている。 「うまいぞ。うまいぞ。 見ろよ、お師匠さまのあの雲の乗り方を。 新米にしてはずいぶん腕達者じゃないか?」 八戒が手を叩くと、悟空は、 「当り前じゃないか。 マスコミの波に乗るのだってうまかったのだから、 雲に乗るくらいのことは朝飯前さ」 「それよりも、ここはどこだろう。 お前ら、感心ばかりしていないで、 現在位置を確認しておくれよ」 沙悟浄はあたりを見廻していたが、 「流れの音がきこえてくるようですね」 「きっとお前の生まれ故郷だよ」 と悟空、が言った。 「沙悟浄の生まれ故郷は流沙河だぜ」 「いやいや。ここは流沙河じゃない。通天河のようだ。 ほら、あそこに見覚えのある渡しが見えている」 「通天河の東岸にはたしか陳家荘があったな。 子供を助けてやったが、 今も元気で暮らしているだろうか?」 空の上から見ていると、 陳家荘の救生寺には人だかりがしている。 「ずいぶん繁昌しているようだな。 結構なことじゃないか?」 「しかし様子が少しおかしいよ。 線香の煙がたたずに、人間ばかり、 それも中学生や小学生ばかりがゾロゾロ列をなしている。 ほら、ガイドの女の人が立て札の前で 何やらしきりに説明しているではないか」 「ハハン。 すると、ここも 観光収入で寺院を維持するようになったと見えるな。 全く坊主も堕落したものだ」 「観光ブームまたよからずや、だよ」 と三蔵はひどく鷹揚な気持になって言った。 「全世界の坊主に蔵をあたえ、 人々にレジャーの楽しみをあたえている点で、 釈迦如来が古今稀に見る 大経営者であることに変わりはないのだからね」 雲は見る間に通天河をすぎ、流沙河をすぎ、 やがて、長安の郡へと近づいてきた。 太宗皇帝は貞観十三年、 三蔵法師を長安の郡から送り出したが、 三年たった十六年に望経楼を建てて、 三蔵の帰りを待っていた。 またかつて三蔵の住んでいた洪福寺では、 坊主たちが別れぎわに三蔵が残して行った言葉を 覚えていて、 毎日毎日、松の枝が東へ伸びる日を 今日か今日かと待っていた。 「おお、いい風だ」 望経楼の看視人がふと空を見あげると、 白い雲が四つこちらへ向ってとんでくる。 その上に、 モンタージュ写真で見覚えのある三蔵らしい男と、 ほかに見知らぬ男が三人乗っている。 「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ。 三蔵さまがお帰りになったぞ」 洪福寺でも同じ叫び声がきこえた。 というのは、庭の松の枝がこの日に限って、 一せいに、東へ東へと伸びはじめたからである。 雲は長安の都の上まで来ると、次第に低く垂れこめ、 やがてそのまま消えてなくなってしまった。 誰も三蔵やその弟子たちの姿を見た者はいない。 しかし、 三蔵があやしげな徒弟たちを連れて長安の郡へ戻り、 そのまま御殿の中へ入ったという人もあるし、 洪福寺の方丈へ入って行ったという人もある。 うわさはまことしやかに口から口へと伝わり、 たしかにこの目で見たという人さえ現れるようになった。 そして、もはや誰も、 三蔵が長い長い旅に出かけたまま かえって来なかったというきびしい現実を 信ずる者はいなくなってしまった。 何故ならば、三蔵の如き愚かにも一途な男の魂は、 すべての人々の心の中に 安住の地を発見してしまったからである。 或る日、洪福寺の老住職は、 経典を収めている書庫の中へ入った。 誰も読まなくなってしまった 過去の教えの数々が蔵いこまれた書庫の中には、 あの極楽の宝庫にもまさる強いカビの匂いが漂っていた。 その匂いがあまりにも息苦しかったので、 老住職は窓をあけようとした。 だが幾久しく閉ざされたままになった窓は さびついて容易にあいてくれない。 「えいっ」 力を入れてひっぱると、 太陽の光が煙のように立ちこめた埃をうつし出した。 その時、ガサリと音を立てて下におちたものがある。 何だろうと思って拾いあげて見ると、一冊の本だった。 老住職はパラパラとめくって見たが、 そのうちに魂を奪われたように読み出した。 それはお経ではなくて、 お経を求めて思わず知らず 真理の道をまっしぐらに歩いて行った 三蔵という一人の男の生涯の物語であった。 合掌。 ─ 完結 ─ あとがきはこちらから。 |
2001-05-12-SAT
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